第2ステージを始めることに

57歳で早期退職した後の人生を模索する毎日を綴ります。

お金が整わない② 食費~質素と贅沢~

私は自分のことを、食費のかからない人間だと思っています。

うちの母は料理上手でした。と、書くと亡くなった人のようですが、まだ生きています。

現在87歳で独り暮らしの母は、毎日の食事の支度は自分でしますが、以前のようにお客様や親戚をもてなす事や、お盆やお正月などの人が集まる時にもてなしをするを事はしなくなりました。


私の子供時代、お弁当の日には、朝からちょちょつと細巻き寿司やおいなりを作って持たせてくれることがよくありました。友達からは「あれ?!今日お祭りか何かあるの?」と聞かれるお弁当。


実際お祭りの日は、お煮しめ、刺身、寿司、砂ずりのおつまみ、ベーコンチーズフライ、唐揚げ、サラダ、ちらし寿司、フルーツゼリー…何人ものお客様が来ても食べきれない程のご馳走を作って、家族はもちろんのこと、近所の親しい人や近くに住む母の弟などにもふるまっていました。


父は、ぼんぼん育ちで、賑やかなのが好きな人でしたので、私が小学生に上がる前は、よその若い人が来ては、夕食を食べて行きました。

駆け出しの司法書士さん、理髪店をしていた母のお客さんの船員さん、他にも私があまり知らない人も来たりして。

 

両親が中年になり、地元の弓道会(父の趣味)でも年長者になってくると、弓道会の忘年会は毎年、うちの和室2部屋を使って行われていました。 15、6人の会員さんに母が手料理をふるまい、よそのお兄さんやおじさま方がたくさん食べて大いに酔って帰って行きました。私も料理運びやお茶碗洗いに駆り出されました。


お正月には三ヶ日食べても食べきれない程の巻き寿司が作られ、親しくお付き合いのある所にも配られました。


そもそも母の料理は、割烹料理店に勤めていた祖父仕込みだと聞きました。母の兄弟は男性でも皆料理ができました。母の得意料理は、魚料理とお寿司だったと思います。私のお寿司のスタンダードは、母のにぎり寿司です。今でも、母の握りより劣ると、私の中では自動的に美味しくないお寿司屋さんに分類されてします(お寿司屋さんごめんなさい😣)。私も兄も、母のレシピを受け継ぐことなく、もっぱら食べる係として育ちました。


父の仕事関係では、美味しいものをたくさん頂いていました。水揚げされたばかりの天然の鯛やハマチ、まだ殻のついたウニ。贈答品の車海老は、年末になるとガレージに何箱も積まれていました。当時はバタークリームが主流で手に入りにくかった生クリームのクリスマスケーキ、全国各地の銘菓(通販はなかったのですが父の仕事のお客様は船主が多かったので全国からお土産物を持って来てくださいました)など、今考えるても、美味しい食べ物に不自由したことのない子供時代でした。


私がお嫁入りした初めてのお正月は、嫁ぎ先で料理の寂しさに愕然としたのを覚えています。義父母とも仏様のような優しい良い方達でしたが、贅沢な食環境(その時初めて自覚したのですが)で育った私には、おめでたいお正月なのに涙が出そうでした。天然物の刺身もないなんて…。


まあ、世間知らずな私でした。

昭和の一般中流家庭と思っていたのに、本当は恵まれていたのだということ、栄養士と調理師の資格をもつ母の食へのこだわり等、初めて感じたのでした。


さてさて、それでも現在の普段の私は質素な食事でOKです。同じ家庭で育った兄は、今でもグルメで大変贅沢な食生活です。そんな兄と食事する事は、豊かな気持ちになり楽しくもあります。グルメを否定するわけではありません。


私の質素食生活の源は、高校時代と大学時代の寮生活、そして「為せば成る」の上杉鷹山にあると思っています。


公立高校へ行った頃、私は寮生活を経験しました。朝はご飯とお味噌汁かパン(冷たくて堅くなったトースト)が1日おきに出て、昼は弁当、夜はいろいろでした。正直なところどんなメニューがあったのかは覚えていません。美味しいと思ったことはなかったのですが、寮とはそんな所だと割りきっていました。


寮から持たせてくれるお弁当は、ユニークでした。各自のお弁当箱に朝食係がご飯をつめて、醤油で煮た(丸天+人参)か醤油で煮た(竹輪+人参)のいずれかで、それが毎日でした。

自宅通学のクラスメートの中には、私の寮弁当をのぞきこんで、私の分もお弁当を作って来てくれたこと人もあり、今でも心が温かくなる思い出です。修学旅行では友人や先生方から「寮生、これも食べなさい。」と料理を勧められたり…


大学では前半2年間寮生活で、後半2年間自炊でした。大学の寮では昼食はなく、朝夕が出ました。私立大学の寮は、公立高校時代の寮よりもずっとましな食事が出ましたが、やはり美味しいと思ったことはありませんでした。私は少ない仕送りでやりくりするために、昼は¥100~¥200で済ますようにしていました。夜も一品だけの食事。バブルの時代の女子大生としては質素。それでも時には、お嬢様方(企業の重役さんや、医師の娘さんたち)と美味しいものを食べに出かけることはありました。


就職後、それまではあまり興味のなかった歴史小説を読むようになりました。その中で出会った上杉鷹山の本は私にたくさんの学びをくれました。人としての生き方、物事の為し遂げ方、食事の内容など。

私は上杉鷹山のような立派な生き方はできませんが、質素な食事であっても、楽しみたいなあと思うようになりました。


もちろん365日、質素な食事をしているわけではなく、質素と贅沢のバランスに気をつけながら、毎月の生活費のなかでどちらも楽しみたいと思っています。


   今日は梅出汁茶漬け

お金が整わない

4月から始まったアルバイト生活は5か月になろうとしています。アルバイトによる平均収入は保険料を引いて、1か月約8万強。もちろんアルバイトの日数によっては、もっと多い月もあります。第2ステージ開始から3か月計画でお金のリズムを作ろうとした私ですが、どうもお金が整いません😓


私は今次女のマンションに居候中。彼女との共同生活で2人で出し合うお金は次の通り。

 家賃  ¥67000のうち¥10,000私出し

 食費  ¥10,000→現在¥11,000

                                  (今後また変わるかも💧)

    雑費  ¥5,000

  計  ¥26,000

 


これ以外で私が使っているお金は

 駐車場代 ¥10,000

 積立投信 ¥20,000

    個人年金 ¥20,000

 iDeCo    ¥12,000

 雑費    ¥10,000~¥30,000

 交際費  ¥20,000~¥60,000

   計  ¥92,000~¥152,000


雑費が上下ともにあるのは、自分だけで使うサプリや服代の分。改めて並べてみると、分かりやすいし、自分のお金バランスがはっきりします…

支出が平均月収を軽く超えちゃって(アハハ…💧)

貯蓄イエローカード、交際費レッドカード🙅

第2ステージ開始から4か月間、不足分はヘソクリで補填してきたのですが、何年もヘソクリ生活を続けるわけにはいかないので、5か月めはストレスを軽減をすることにしました。


まず貯蓄部分(投信、個人年金保険、iDeCo)は前職時代にしていた財形(毎月¥3,000ずつしていたら辞める頃には100万ぐらいになっていた😁)、今もらっている個人年金保険金、退職金から支払うことにして、毎月の支払から切り離しました。これまでの貯蓄で今の貯蓄をするってナンセンスな感じもするのですが、まっいいか…


そうすることで月の最低支出¥116,000のうち¥42,000の支出がなくなって、アルバイト代の範囲内で賄えるようになり、とても楽に!

当面はこれで大丈夫(お金に厳しい人や、数字に強い人からしたら、私の家計管理は、きっとどんぶり🍜かザル😅)。


食費がミニマムなのは私のこれまでの育ちにあります。それは次回に…

交際費の異常さは、うちの親戚づきあいによる長年の影響です。これは笑って受け入れようと思っています。


前職では、地方で暮らすのに十分すぎるぐらいの収入が、夫にも私にもありました。食事、旅行、娘達へのプレゼント…等々。非常識にならない程度に不自由なくお金を使ってきました。中でも教育に最もお金を使ったのは、実家の父が生前「うちは遺してやれるものはないけど学校だけは出してやる。」と言っていた言葉に影響された結果です。

子育て中に意識したことは、娘達へのお小遣いは最低限にしたことぐらいです(うちはお金持ち、だと勘違いされては困るので😊)。


その生活から第2ステージへの移行は、あまり急斜面にならないように気をつけながらもダウンサイジングすることを楽しんでいます。

歳を重ねてきて、欲しいものが少なくなってきたのも面白いことだと思います。

若い頃は、雑貨屋さんに行けばお洒落なグラスが欲しくなり、呉服屋さんに行けば素敵な帯が欲しくなり、ディーラーのショウルームに行けば車が欲しくなり…世の中には欲しいものが溢れていました。年齢を重ねて、私の消費意欲が低下したのか、世の中のステキな物が減少したのか…?


ともかく、5か月目にしてやっと私の家計箱に中身が収まりつつあります。数字に弱い私が、ここまでに学んだ事は1つ。アルバイト生活をしながら、毎月定額の支払いがあるのは辛いこと。それが貯蓄であれ保険料であれ、最小限に抑えなければやりくりがしにくくなるということです。それもこれも、長年のザル生活の結果でしょうけど😅

私が憧れているブロガーさんのように、慎ましいのに豊かで、バランスの良い毎日を送るには私はまだまだ未熟です。


以上は、9月に書いたブログをアップしたものです。金色の包み紙はイエローカード、赤い包み紙はレッドカードのイメージです。


長崎、やっぱり最高!

久しぶりに長崎に来た。


西九州新幹線は、乗り換えがあるものの、快適な旅だった。元々鉄道好きではあるが、新幹線「さくら」と「かもめ」の指定席は広々として、チェックインの要る飛行機の旅よりも、私には満足度が高かった。列車がホームに入る時の駅員さんのきびきびとした確認の声は、カッコ良くて、私が小学生男児だったら、その仕事に就きたいと思っただろう😃


途中を繋ぐ「リレーかもめ」は新幹線よりは少し揺れるが、座席に座ることが出来ると悪くない。指定席を取るべき列車だと思う。



リレーかもめの中


車窓からは美しい田園風景



長崎駅前は、まだ工事中の場所もあったが、たくさんの土産物店、観光情報センター、バス乗場(以前は駅から陸橋で電車通りを渡らなければならなかった)、市電乗場へと続くエレベーターやエスカレーター等々、とても使いやすくなっていた。さすが観光県長崎。


駅のトイレ 




市電に乗って思案橋まで行き、ホテルに荷物を預けて直行したのは、松翁軒本店二階のカフェ「セビリア」。

長崎で学生時代を過ごす間、市電から見えるカフェにずっと憧れていた。


10年ほど前に、家族旅行で長崎を訪れた折、まだ存命だった父を連れて来たくて立ち寄ったが、残念ながら休みだった。

と言うことで、父は亡くなったけれども、やっとやっと、セビリアの窓から路面電車の走る長崎の街を眺めることができた。



バタバタとしていた今日この頃だったが、エアコンの程よく効いた室内で、クラシック音楽のBGMとともに、ゆっくりとした時間が流れた。



長崎と言えば眼鏡橋。

けれども、あまり知られていないいないかもしれないが、眼鏡橋のかかっている中島川には、熊本の東陽町と同じぐらい、たくさんの歴史的な石橋がかかっている。

学生時代は、私も眼鏡橋しか見ていなかったが、今回、数メートルごとにかかった多くの石橋に惹かれた。歳を取ると違うものが見えてくるのだなぁと感慨深く写真を撮った。





実物と水面に写る橋のアーチを合わせて眼鏡に見えるので人気の眼鏡橋は、この川にかかる橋本の1つに過ぎない



橋は10か所以上ある。

どこを取ってもディープな長崎。